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昭和42年01月08日 朝の御理解



 皆さん人間はこの世に、何のために生まれて来たのだろうかと、言ったような事を考えられたり、又はそれを思うて見られる様な事はないでしょうか。自分が一体何の為に、この世に生まれて来たのだろうか。そういう事も追求する事なく、ただこの世こに生まれて、そして死んで行く。言わば飲んで食ってお終いだと云う事。「たらいば。たらいにはごじゅう」何の説教もない。
 教祖の神様は人間は万物の霊長であると。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理にあう信心をせよとおっしゃる。私は思うんですけども、人間はこの世に生を受けさせて頂いたと云う事に、満腔からなる感謝の心を持って、過ごさせて頂けれる様なおかげとそういう道を、体得する事の出来れるところに万物の霊長としての、値打ちがあると思う。輝きがあると思う。
 人間のどんなに力の強いゾウとかライオンとかとこう、幾ら力が強かってもその力は只何を使うか。ただ自分が生きて行くと云う事の為に、だけの為だけにしか行使しない。どんなにサルが利口だというても、食べ物に味を付けたりする事はよう致しません。自分の頂いておる力を人の為に、世界の為に使う事の出来るのは人間だけです。例えば食べ物でもそれをそのまま食すると云う事をせずに、それに甘い辛いを味を付けたり。
 いわゆる調味をして、そしてそれを食するというのは人間だけです。それが出来るのが万物の霊長なんです。ですから私共がどうでもその力を頂いて、その力をです私共だけの為に、自分だけの為だけに行使するというなら、それはゾウやライオンもあんまり変ったこっちゃないですよ。折角頂いておる食べ物をです、そのまま生ごみを食べたり、生野菜を食べたり、肉でも何でもそのまま食すると云った様なものであったら。
 言わば獣と変りません。教祖の神様はそういう、力を受けていく道を教えて下さると同時に、その力をです、人の為に世の為に使うて行けれるという、そういう道を教えて下さっとる。人間にはそれが出来れる、言わば。食べ物にでも味を付ける事の出来れる、味を付けて、より良い工夫をそれを調理したり、美味しくする事の出来れる、知恵というものを与えて下さった。
 そこで私共はです、万物の霊長であるから、万物を見て道理にあう信心をせよとおっしゃる。力を受けて行くという事に、一切の事に、味わいを付けて行くという事にです、私は心使わせて貰い。そこから本当の人生の意義。はぁその為に生まれて来たんだ。その為に、生きなければならないのだ。その為に、あの世にも持って行けれ、この世にも残しておけれるものを、頂いとかなければならないのだと、云う様な事が、私分からなければいけないと思う。
 今朝から、私そんな事をお知らせ頂いてから、本当に果たして私共がこうして、この世に生を受けさせて頂いて、何十年間、本当に人間にだけ許されておる所の。言わばその知恵とか。その才覚というものをです、私共がどう言う様な事に使うて来たか。本当に一つの事柄、一つの問題その、そのものそのものをです、に、有り難いとか勿体ないとかという味を付けさせて貰うて、生きて行く生活を、人間真実の幸せだというのであり、それが出来るのは人間だけなのだ。
 それが許されるのは人間だけなのだ、その許されておる。その万物の霊長としての値打ちをです値打ちとして発揮出来ないで、しまえて行くと言った様な事は本当に馬鹿らしい事である、と同時に折角人間としてこの世に生を受けて来たのに、神様に対しても相済まん事だと云う事を思うのです。皆さんここん所にですね、気付かせて頂かなければならん。食べ物だけではありませんね、味を付けるのは一切のいわば事柄問題。
 いわゆるその問題を通して信心を分からせて頂くという言葉で、最近は表現致しますですね。その問題を通して信心を分からせて貰うという事は、その問題を通して、その問題にいかに素晴らしい味を付けるかという事なんですよ。痛い痒いの事に至るまでです。例えば難儀という難儀をです、その難儀と思うておったその難儀にです、この難儀のおかげでこういう素晴らしい味が付いたと。
 味を付ける事が出来たと。その私は術を教えて頂く、それが私は信心だと。又それを教えて頂いて分かる、分かり、誰でもそういう道が体得出来るのが人間だと。牛やら馬やらにいくら教えたって、そういう味を付けれる道は覚える事は出来ません。果たして皆さんどうでしょうか。味を付けておいでられるでしょうか。もし味を付けずにそのまま頂いたとすんならばです、これは万物の霊長としての値打ちはないのですよ。
 たいして他の動物と変らんのですよ。その問題を通して、信心のけいこをさせて頂くと、そこに力が得られるのですよ。大変な問題、とても自分には重荷だ。その重荷だという、その重い荷物をです、かろうて行くところにです、私は力が得れるんだと思うんです。そしてその力をです、ただ私共の為だけの行使でなく、それが人にも与えられ、人にも潤うて行く様な生活。
 そういう私は生活させて頂くと云う事にです、私に生き甲斐を感じさせて貰う人生でありたいと思う。他の動物とは少しは増しな、私は生き方をしなければ、この世に何の為に生まれて来たやら分からんのです。ただ自分が食べたい、自分があぁしたい。自分がこうなりたい。そういう例えば欲望だけに、もし生きるとするならばです、もう人間の値打ちはありません。金銭欲、物欲。物の欲。
 様々な私は欲望にです、欲望にただ走るだけであったならばです、その欲望を満たす為にです。いうなら人の茶碗もたたき落としてからでも、そういう生き方だけしか人間がもししないとするならです、もう動物と変りはないです、他の動物と。教祖の神様は、それは私共には本当の事は分かりません。あの世に持っていけるとか、この世に残しておけるとか、これはお徳だけだと仰るが。
 その、本当にそれとても実際は私共には分からんです。分からんけれどもです、私共はそう言う所におぼろげながらでも気付かせて貰です、一つ一つの問題を通して、人間が向上する。一つ一つの問題を通して有り難うなる。一つ一つの難儀の度に私共が力を頂いて行く事の出来る、そこにです、言わば難儀というものはないもんだなぁと難儀と思うておったものにこんなに素晴らしい味が付いた。
 いらん物の様に思うておったのがこんなにも美味しい物であった、有り難い物であった、勿体無い物であったと分からせて頂く時です、それが一つの、段々、はぁ私共の行く手には恐い事もなからなければ、困ったと言った様な事はあり、ないのだと実を言うたら。あってもそれを、どう味付けるかという楽しみがあるのだと。という私は元気な心を持って、この私共の行く手に、まぁ遮る物があるなら、その遮るものを、ある場合は克眼して乗り越えて。
 それに味を付けてそれによって力を頂いて進んで行けれると、こうそういう生き方をする所に生まれて来るのが、喜びであり安心なんです信心の喜びであり、信心によって生まれて来る。いわゆる不動の信念なんです安心なんです。ははぁこの喜びとかこの安心とかというのが、もしお徳というものであるならばです、ははぁこのままこのまま是を、あちらにも持っていけるんだなぁと云う様なおぼろげなものが生まれて来るです。
 成程これならば、後にも残しておけれるんだなぁと言った様な物が、言わば私自身がはっきり分からんのですけれど。そんな気がするのです。教祖の神様はこれを説くと仰ったのだもん。徳のない間は心配をする徳を受ければ心配はないと仰る。身に徳を受ければ心配はない。身に徳を受ければ、心配のない生活が出来れる道をです、教祖は教えて下さった。しかもそれはみてると云う事がない。
誰でもがおかげが受けられるとこう仰っておられる。人間に生まれて来た以上、誰でもそれをです、習おうと精進するならばです、そう云う事を体得しようと願うならばです、誰にでも与えられるのである。と云う事。私共そこんところに精進せず、焦点をおかずしてです、私共がただ、んならお参りはしとるけれども、目先目先のおかげをおうて行くというのであったら。
 さぁどうに信心の無い者も変らんのであり、信心の無い者に変らんという事は、他の動物とあんまりたいして変らない生き方と、同じだという事です。是では生きがいを感じられるはずがありません。是ではお徳を受けられる筈はありません。私そこに本当に、私はうえを開かにゃいけんと。どうんなに、上手に教えこんだからというてです、ね。他の動物に、なら三味線を教えたっちゃ、三味線は覚えはしませんでしょうが。
 何故かというとですね、拍子が分からんのです、他の動物には。拍子というものが。なら人間だれでもが分かっとるかというと、分かりはしません。稽古をすると誰でも分かるのです。これはもう楽器は同じ事、皆。いわゆるどういう調子かという事、生き調子だと。生きて行く調子なのだ。生きる調子を覚える事です。どういう例えば難儀という中にあっても、もうそれこそリズミカルなです。
 どういう中にあってもです、もう何ともいえん調子の中にです、リズムの中にです、生活して行けれる、そういう道なんです、お道の信心。そういう道を教えて下さるのだ。 サルが三味線弾いたとは聞いた事ないでしょう。動物にオーケストラがあるちゅう事聞いた事がないです。人間だから出来るのです。それはですね、拍子が分かるからです。なら皆さんが、三味線の調子を合わせきるかというと、合わせ切らんでしょう。
 稽古しなければ分からんのです。稽古するとちゃんと分かって来る様になる。あっあれはちょっと三の音がきつ過ぎる、この二が下がり過ぎておる。こりゃぁまちっと上げなければ、と云う様にですね、二上がり三下がり、本調子と、と云う様にです、そういう調子を私共体得させて貰うのだ。そこに人間はもう人間は自由だと、天地の親神様はそうなんだ。信心させて頂く、窮屈なこっ、ちゅうこっじゃない。
 場合には言わば二あがった生活もかんまん。ちった三に下がった信心も、生活も良いんだと。まぁ例えば信心させて頂いて皆さんがこうやってです、御祈念をしたり、御理解を頂いておる時は、まぁ人間の本調子の時でしょう。だから、この本調子の時ばぁかりでなからにゃならん、すればならんというと、大変信心は難しいです。二上がりがあって良し。三下がりあって良いのです。 
 あぁしちゃならん、こうしちゃ、そこに楽しさがあるのです。二上がりは二上がりの良さ、三下がりなら三下がりの調子でなからなければ、ならないもの。というて、こうしたんなら、本調子に、習っておかげを頂かせて貰うという時も、あって良い。もう信心は自由無碍。もう自由自在の中からです、有り難いそのリズムを聞きとる事が出来、その調子に乗って、おかげを頂いて行く事が出来るのだ。
 そういう事の出来るのも人間なんです。人間だからなのだ。その調子一つを覚え様としないで、良い、言うならばもう素晴らしいタイミングの中に今日一日を過ごさせて貰うと云った様なおかげ頂ける筈がない。調子を体得しなければ、それを本気で稽古しようという気にならなければ、調子一つが分からんって。三味線三年とこういうですよ、例えば今日の三味線の事申しますとね。
 なら三年経ちゃどげな馬鹿でっちゃです、一人前に大体なれれるんです。信心も言わば本気で信心を分からせて頂こうと三年になったらです。誰でもはぁこれがお徳というものかいなと。成程こういう生き調子というのがあったんだと。こう言う物の見方考え方、是が本当なのだと。んならたいした難儀な事はないじゃないか。難儀と思うておった事でも、そりゃ難儀と思うておったもんに、こんな味わいも付けられるんだから。
 いやそういう難儀でなからなければ、こんなに美味しくは頂けんのだと、云う様な事が分かって来るのです。もう是はもう毒とばっかり思うておった、いうならばです。ものが変じて薬にする事も出来るんだと、云う事が分からせて頂けれる。そう云う様な事をです、皆さん本当に体得の出来れる、そういう稽古をさせて頂いておるんだと云う事なんです。そして、自分がその、稽古が本当に少しずつでも出来て行くと言う所に、信心の楽しみがあり、喜びがあり。
 人間万物としての値打ちをです、私は謳歌しながら、生活して行く所の。本当にに人間らしい生活というのが、約束されるのだと。人間は何の為にこの世に生まれて来たのかと、そういう幸せを頂かせて貰。そういう喜びをです、あの世にも持っていけ、この世にも残しておく、おけれる、そういうおかげを頂かせて頂く為に、私共はこの世に生を受けて来ておるんだと。神様の願いも又、そこにあるのだと。
 どうぞ氏子信心して、おかげを受けてくれよっと。どうぞ信心して今の病気を直ってくれよ、金持ちなってくれよ、というのじゃない。信心しておかげを受けてくれよというのは、只今私が申します様な事を本当に、分からせて貰って。人間の万物の霊長としてのです、本当の自覚に立たせて貰ってです、そういう一つの特権を頂いておるので御座いますから、それを私は、頂いていかなければ、行使して行かなければです。
 神様に対して相済まん。皆さんそういう風には考えられないでしょうか。本当に私は、私共がです、本当に生き調子をですね、私は覚えなければ信心の値打ちはないと。本当に、ものに、一切の事柄にです、味わいのつける術を覚えて行かなければです、もう言わば、他の動物ともうあんまり変らんという事。そういう生活では詰らんでしょう。ですから問題はそこに気付くか気付かないか。
 本気でその事にです、稽古しようと思うか思わないかと云う事なんです。唯、人の聞いておる、人の聞いておるのを聞いて、はぁよかな三味線。あぁよかなと思うとるだけじゃいかんです。自分自身がいっちょ自分も稽古して見ようという気にならなえればです、何時まで経っても生き調子は分かりませんです。同じ様な問題をぐるぐる、ぐるぐる回って。同じ様な問題に何時も難儀しておる。何時も同じ様な問題に何時も腹を立てたり、淋しがったりしておる様な事。
  (※テープが消えている、同じ御理解の続きかは分からない)
 味をいよいよ付けて行くのじゃなかろうかとこう。霜にうたれば、うたれる程、例えば美味しゅうなるというか、霜にうたれれば枯れてしまうという、そういうものがある。それを言わば、その進まず、引かず、いわゆるその中間をぐずぐずしていっておる様な状態が、今の菊栄会の事だと、信心じゃなかろうかと、私は思うです。
 そしてただ今、こうした、なら椛目の事としてもです、それこそ(むぞう)の事、いわゆる御造営の事に取り組んでおる時で御座いますから、皆さんがいくら頑張ったっちゃです、その皆さんの事に反対はしますまい。主人がこうする時に反対しますまいけれどもです、主人がお父さんここでやらんならどうするのと、例えば家内が言うてくれるくらいな信心をです、今こそ頂かなければならんとじゃなかろうかという風に、思うんですね。
   どうぞ。